「みなの者!出陣じゃー!」
武田信玄の号令と共に、武田軍は西へ向かった。
目指すは天下を手中におさめることだった。
三方ヶ原の戦いで徳川家康を蹴散らし、破竹の勢いで武田軍は進むかに見えた。
しかし、突如として武田軍は退却を始めた。
織田信長・徳川家康が最も恐れた武田信玄が死んだのだ。
甲斐の山々を越え、信濃の地に勢力を伸ばし、駿河の海へ進撃。
そして、三河、遠江の武士たちを震え上がらせた人物が、この世から消えたのである。
武田信玄、その名は、戦国の世において、ひとつの雷鳴のようなものであった。
敵は信玄の旗を見ただけで震えあがり、味方は信玄の声を聞いただけで喜び勇んだ。
多くの者が思っていた。
信玄ならば、いつか織田信長を倒し、天下統一を果たせるのではないか。
その信玄が、元亀4年(西暦1573年)の春、帰らぬ人となったのである。
彼の死は秘された。
武田家は、主君の死をすぐには世に知らせなかった。
知られれば、織田も徳川も、一斉に武田へ牙をむく。
だから家臣たちは涙を押し殺し、陣中の空気を変えぬよう努めた。
だが、どれほど隠しても、武田の中から何かが抜け落ちたことは隠しきれなかった。
兵の士気が下がった。
家臣の目に暗い影が見えた。
軍議の席に、かつてのような重みがなくなった。
信玄がいない。
その事実は、声に出さずとも、すべての者の胸の中にくすぶっていた。
表向きは、信玄は病のため隠居し、家督を勝頼に譲ったということにした。
勝頼は比較的優秀な人物である。
武勇に優れ、気性は強く、決断も早かった。
諏訪の血を引き、若い頃から戦場を知っていた。
だが、勝頼にとって不幸であったのは、父があまりにも偉大すぎたことである。
家臣たちは勝頼を見る。
しかし、その目は勝頼だけを見ていない。
常に、その背後に信玄を見ていた。
信玄ならば、ここでどうしたか。
信玄ならば、この城を攻めたか。
信玄ならば、この敵を許したか。
勝頼は、生きている家臣たちよりも、死んだ父に見張られているようであった。
さらに勝頼は、武田家古参の重臣たちからは重く見られた存在ではなかった。
なぜならば、勝頼は信玄の四男にすぎず、武田家を継ぐ人物ではなかったからである。
武田家を継ぐはずだった人物は、信玄の長男である義信だった。
1560年、桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にすると今川家は衰退の一途をたどった。
信玄はこの機を逃さず、今川領に進出することを考えた。
しかし、長男の義信は真っ向から信玄に反対したのだ。
それは、義信の妻が今川義元の娘だったからである。
義信は、信玄が妻の実家に刃を向けることをよしとしなかったのである。
信玄と義信は対立し、結局義信は寺に幽閉され、そこで命を落とすことになってしまった。
信玄の次男は失明しており、三男は早世していた。
結局、信玄の後を継げるのは四男の勝頼しかいなくなっていたのである。
しかし、勝頼はもともとは母の実家である諏訪家を継ぐ人物として育てられていた。
つまり、武田家の家臣たちから見ると、勝頼は武田宗家の正統な嫡男として育てられた人物とみなされていなかったのだ。
そのため、勝頼にとって武田家臣団をまとめるのは容易なことではなかった。
いずれ、父・信玄の死は、織田信長や徳川家康に伝わってしまう。
だから、ただ守るだけでは武田家はジリ貧になっていくと勝頼は思った。
信玄の子である以上、武田の力を衰えさせるわけにはいかない。
父の死後、武田が弱くなったと思われてはならない。
その思いが、勝頼の心を悩ませた。
だから勝頼は攻めることに決めた。
遠江へ兵を進め、徳川方の城を圧迫した。
そして天正二年(西暦1574年)、ついに高天神城を落とした。
高天神城は、遠江を押さえる重要な城である。
徳川家康にとっても痛い敗北であった。
この勝利は、勝頼に大きな自信を与えた。
武田はまだ強い。
勝頼は武田家の当主にふさわしい。
そう見せることに成功した。
だが、勝利とは、ときに人の心に圧力をかけることにもなる。
一度勝てば、次も勝たねばならない。
父の威光を守っただけでは足りない。
父を超えるほどの戦果を挙げなければならない。
勝頼の胸の奥で、その焦りは日に日に募っていった。
一方、徳川家康もまた、ただ黙って見ていたわけではなかった。
信玄に敗れた屈辱は、家康の胸に深く刻まれていた。
家康は、信玄に三方ヶ原の戦いで散々に敗れた。
しかし、徳川は滅びなかった。
領地に踏みとどまり、織田信長と結び、武田の圧力に耐え続けた。
その家康のもとへ、かつて武田に従っていた奥平貞昌が帰参した。
奥平氏は三河山間部に根を張る国衆であり、長篠城を守る立場となった。
勝頼から見れば、それは裏切りである。
武田の威に従っていた者が、徳川へ走った。
許せば、ほかの国衆も同じことをするかもしれない。
長篠城を落とすことは、ただ一つの城を奪うという意味だけではなかった。
武田に背く者がどうなるのかをみせしめることだった。
天正三年(西暦1575年)、勝頼は大軍を率いて三河へ進んだ。
その数、約1万5千。
目指すは長篠城である。
長篠城は、豊川と宇連川が合わさる断崖の地に築かれていた。
大きな城ではない。
城兵も多くはない。
だが、三河、遠江、信濃をつなぐ道を押さえる要地であった。
ここを落とせば、徳川領への圧力を一段と強めることができる。
さらに奥平貞昌を討つことができれば、武田に背いた者への見せしめにもなる。
勝頼に迷いはなかった。
武田の旗が、長篠の山々を埋めた。
赤備えが進み、槍の穂先が光り、諏訪法性の旗が風を切った。
城を囲む武田軍の数は、城兵から見れば、山そのものが動いてきたように思えたであろう。
城中の兵は、およそ五百。
対する武田勢は、その何十倍にも見える大軍である。
長篠城は、たちまち孤立した。
奥平貞昌は、城内の兵を集めた。
恐れるなとは言えなかった。
恐れぬ者などいないからである。
だが、退くなとは言えた。
ここで城を捨てれば、三河の道は武田に開かれてしまう。
徳川家康の面目も潰れる。
そして何より、徳川へ戻った奥平家そのものが、武田の餌食となる。
貞昌は覚悟を決めた。
この城を枕に討死することになっても、援軍が来るのを信じて最後まで戦う。
武田軍は、城の周囲から押し寄せた。
矢が飛び、鉄砲が鳴り、城の柵や門が揺れた。
昼は攻め、夜は篝火で城を照らした。
城兵たちは眠れなかった。
外を見れば、闇の中に無数の火が浮かんでいる。
兵糧は減っていく。
水も気にしなければならなかった。
傷ついた者の呻き声が、夜の城内に響いた。
それでも奥平の兵たちは降らなかった。
家康様が来る。
信長様も来る。
その望みだけが、城内の兵の心を支えていた。
とにかく城が落ちないように守るだけだ。
しかし、それができなくなる事態が起きてしまった。
籠城して5日目、武田軍の放った火矢によって、城の北側にあった兵糧庫が焼かれてしまったのである。
これではあと数日で兵糧が尽きてしまう。
城内の不安は、一気に重くなってしまった。
このままでは城は落ちる。
誰かが武田軍の包囲網を抜け、岡崎へ走り、家康様に急を告げなければならない。
その役目は非常に危険な役目である。
誰も名乗り出ないであろうと、みんなが思っていたその時である。
鳥居強右衛門という男が名乗り出た。
強右衛門は、決して身分の高い武士ではなかった。
だが、長篠の戦いを語るとき、この男の名前を避けて通ることはできない。
彼は命を捨てて、城の外へ出る役を引き受けたのである。
夜の闇が落ちた。
強右衛門は、夜陰に紛れて下水口から城を抜け出した。
川の音が、闇の底で低く響いていた。
武田の見張りは周囲に散っている。
少しでも音を立てれば捕まる。
捕まれば、生きては戻れないことは明らかだ。
それでも強右衛門は進んだ。
泥に足を取られ、草に身を隠し、水に潜って移動した。
彼の頭にあったのは、自分ではなく城に残った仲間のことであった。
疲れきった同僚の顔。
空腹に耐える若者の顔。
傷ついた者を励ます女たちの顔。
彼らに援軍を呼ばなければならない。
その一念だけが、強右衛門の体を動かした。
やがて彼は、武田軍の包囲網を抜けた。
そして岡崎へ向かった。
走った。
転んでもまた立ち上がり、走った。
足が血だらけになりながらも走った。
そして、家康のもとへたどり着いた強右衛門は、長篠城の危機を伝えた。
「城はまだ落ちておりませぬ。しかし、兵糧が底をつき、もう長くは持ちませぬ。援軍を急いでくだされ!」
家康はすでに信長に援軍を求めていた。
織田信長は動いていた。
信長にとっても、これは武田を叩く好機であった。
信玄が生きていた頃は、武田は恐るべき敵であった。
しかし今、武田を率いるのは勝頼である。
勝頼は勇猛な武将であるが、まだまだ若輩者である。
そして、勝頼は戦に勝たなければならないという焦りを抱えている。
信長はそこを見抜いていた。
強右衛門は、翌日に織田・徳川の本隊3万8千が援軍が向かうことを知った。
これを城に知らせれば、城兵は耐えられる。
あと少しだ。
援軍は来る。
その言葉が城内に届けば、長篠城は息を吹き返す。
ゆっくりと休むように言われた強右衛門だったが、彼はそれを断り、再び長篠城へ向けて走った。
だが、運命は残酷であった。
城へ戻る途中で、彼は武田方に捕らえられたのである。
勝頼の前に引き出された強右衛門は、満身創痍であった。
だが、その目は死んでいなかった。
勝頼は強右衛門を利用しようとした。
城に向かって叫べ。
援軍は来ない。
城内の者に降伏を促せ。
そう言えば命は助ける。
武田方からすれば、これは当然の策である。
城兵の心を折れば、長篠城は落ちる。
強右衛門一人の口で、城一つが簡単に手に入る。
城壁の上では、奥平の兵たちが見ていた。
あれは強右衛門だ。
戻ってきたのか。
援軍はどうなったのか。
城内の空気は凍りついた。
強右衛門は、城に向かって口を開いた。
「城内の者に物申す。すでに、織田・徳川の本隊が岡崎を出発した!援軍は来る!持ちこたえられよ!」
その声は、城兵たちに確かに届いた。
泣き崩れる者がいた。
槍を握りしめる者がいた。
心が折れそうだった兵たちが、もう一度立ち上がった。
強右衛門は磔にされ、殺された。
だが、彼の言葉は死ななかった。
むしろ、彼の死によってその言葉は永遠となり、城兵たちの士気を上げた。
長篠城は、彼の命と引き換えに、持ちこたえたのである。
織田信長と徳川家康の連合軍は、長篠へ向かって進んだ。
兵の数は武田を上回った。
信長はただ進軍を急いだだけではない。
彼は設楽原の地形を見ていた。
連吾川が流れ、その周囲には湿地や田があり、丘が連なる。
騎馬が思うままに駆けるには、決して都合のよい土地ではない。
信長はそこに陣を敷いた。
徳川家康もまた、弾正山に本陣を置いた。
長篠城を救うだけなら、ただ城へ向かえばよい。
だが信長と家康は、武田軍を野戦に引き出し、そこで打ち破る構えを整えた。
一気に武田軍を叩こうとしたのた。
連吾川沿いに馬防柵が築かれた。
丸太が運ばれ、杭が打たれ、柵が組まれた。
一重ではなく、二重、三重と重ねられた柵である。
柵の前には川があり、水田があり、ぬかるみがあった。
武田の騎馬軍団が進めば、足は乱れる。
馬は速度を失う。
そこへ鉄砲が向けられる。
この柵は、武田の騎馬隊の勢いを殺し、火縄銃の標的にするための仕掛けであった。
勝頼は信長と家康の布陣を見た。
信長も家康も目の前にいる。
しかも柵の向こうに身を置き、武田の攻撃を待っている。
勝頼の心は揺れた。
武田の重臣たちもまた、戦場を見ていた。
信玄・勝頼に仕え、赤備え隊を率いている猛将・山県昌景。
信虎・信玄・勝頼の三代に仕え経験豊富な名将・馬場信春。
戦闘だけでなく、軍の運営にも関わった実務型の重臣・内藤昌豊。
武勇一辺倒ではなく、地形・布陣・土木にも強い知略型の武将・原昌胤。
真田幸隆の長男で、川中島の戦いや小田原攻めにも参加した実戦経験豊富な武将・真田信綱。
兄・信綱とともに武勇に優れた武将・真田昌輝。
信玄の時代を知る歴戦の将たちである。
彼らは、敵を恐れていたのではない。
戦を知っているからこそ、この戦いは不利だということを見抜いていた。
馬防柵の向こうに、鉄砲がある。
地面はぬかるんでいる。
敵は用意周到に準備をしている。
こちらから無理に攻めれば、武田軍は壊滅する。
当然のことながら、軍議では、慎重論が出た。
長篠城を包囲したまま、敵の動きを見てもよい。
ここで決戦にこだわる必要はない。
一度退いて、時を待つこともできる。
だが、勝頼は退けなかった。
ここで退けば、武田は織田と徳川を前にして逃げたと言われる。
奥平貞昌を討てず、長篠城も落とせず、しっぽを巻いて逃げ帰ったと言われる。
それは勝頼にとって、耐えがたいことであった。
父・信玄ならば、ここで退いただろうか。
父ならば、敵の策を見抜き、別の道を取ったかもしれない。
だが、その信玄はもういない。
勝頼は、自分の判断で武田軍を導かなければならなかった。
そして、その判断が父・信玄と比べられることを、誰よりも知っていた。
勝頼は攻撃を決めた。
重臣たちは、それ以上止められなかった。
主君が決めた以上、従う。
それが武田の家臣であった。
だが、その忠義の武将たちは、この日、多くの命を設楽原に置いていくことになる。
決戦の前夜、設楽原には重い空気が漂っていた。
武田の陣では、兵たちが槍を磨き、馬の具合を確かめ、鎧の乱れを正していた。
歴戦の兵ほど、明日の戦が容易でないことを知っていた。
遠くには、織田・徳川方の篝火が見えた。
その火は、数えきれないほど並んでいた。
勝頼は本陣で眠れなかった。
目を閉じれば、父・信玄の顔が浮かぶ。
父は何も言わない。
だが、その沈黙が勝頼を苦しめた。
勝つしかない。
勝って、武田の名誉を守るしかない。
勝頼はそう自分に言い聞かせた。
一方、織田方の陣でも、緊張があった。
鉄砲衆は火薬を確かめた。
弾を整えた。
雨が降れば鉄砲は使いにくい。
湿れば火はつかない。
火縄銃とは、ただ数を並べればよい武器ではなかった。
撃つには準備がいる。
火を保ち、火薬を詰め、弾を込め、狙いを定める時間がいる。
だからこそ、鉄砲だけで野戦に勝つことは難しい。
鉄砲を生かすには、鉄砲を守る仕組みが必要であった。
その仕組みこそが、設楽原の馬防柵である。
後の世に、長篠の戦いは三千挺の鉄砲と三段撃ちの戦いとして語られるようになる。
三千挺の鉄砲を千挺ずつ三列に並べる。
一列目が撃つ。
撃ち終えた者が下がる。
二列目が撃つ。
さらに三列目が撃つ。
その間に一列目が弾を込め直し、再び撃つ。
そうして絶え間なく弾丸を浴びせたというのである。
この話は、非常に分かりやすい。
信長の新しい軍略を示すには、これほど鮮やかな場面はない。
だから多くの人が、長篠の戦いと聞けば三段撃ちを思い浮かべる。
しかし、近年の研究では、この整った三段撃ちは強く疑われている。
その大きな理由は、信長の事績を伝える重要史料である『信長公記』に、三列に分かれて順番に撃ったという記述が見えないことである。
徳川方の記録として知られる『三河物語』にも、後世の人々が想像するような三段撃ちの描写はない。
さらに、私たちがよく目にする長篠合戦図屏風も、戦いの現場で描かれたものではない。
多くは江戸時代になってから、伝承や軍記物語をもとに描かれた長篠の戦いのイメージである。
つまり、私たちの頭にある三段撃ちの長篠の戦いは、現場の戦いそのものではなく、後の時代が作り上げた長篠の戦い像であるのだ。
もちろん、だからといって鉄砲の役割が小さかったわけではない。
大量の鉄砲が使われたこと、馬防柵によって織田・徳川方の鉄砲衆が守られたこと、武田軍がその火力に苦しんだことは確かである。
三段撃ちが整然とした三列交替射撃ではなかったとしても、部隊ごとの交替射撃や、柵の各所からの連続的な発砲はあったであろう。
大切なのは、信長が魔法のような一つの戦法を用いて勝ったのではないということである。
地形を選び、柵を築き、鉄砲を守り、徳川勢と連携し、武田の攻撃力を正面から受け止める準備をした。
その総合力が、長篠の戦いの勝敗を分けたのである。
夜が明けた。
天正三年(西暦1575年)五月二十一日である。
設楽原の朝は、静かに始まった。
草の朝露が光り、川霧が低く漂っていた。
だが、その静けさの下に、数万の殺気が潜んでいた。
武田軍は動いた。
山県昌景の赤備えが進む。
赤い甲冑、赤い旗、赤い武具。
それは信玄の時代から敵を震え上がらせてきた武田の精鋭である。
馬場信春の隊も動いた。
内藤昌豊の隊も進んだ。
真田兄弟も、それぞれの隊を率いて前へ出た。
武田の兵たちは、みな勇猛だった。
彼らは、この日もなお戦国最強と恐れられるにふさわしい兵であった。
太鼓が鳴った。
鬨の声が上がった。
武田勢が連吾川へ向かった。
川を越え、水田を越え、ぬかるみに足を取られながらも、それでも前へ進んだ。
馬の蹄が泥を跳ねた。
槍が突き進んだ。
盾のように並ぶ柵が近づいた。
その向こうで、鉄砲の火縄が赤く光った。
次の瞬間、設楽原に雷が落ちたような感覚があった。
轟音が響いた。
白煙が広がった。
そして、すぐに兵たちが倒れた。
馬が悲鳴を上げた。
叫び声は、銃声にかき消された。
それでもなお、武田勢は止まらなかった。
倒れた者を踏み越え、武田軍は前へ進んだ。
柵へたどり着けさえすれば、敵陣を木端微塵にできる。
そう信じて武田の騎馬隊は進んだ。
だが、柵は近いようで遠かった。
川と湿地が足を捉える。
田んぼの泥が馬の走りを鈍らせる。
柵の前で勢いを失ったところへ、また銃声が響く。
一発ではない。
あちらでも鳴り、こちらでも鳴る。
鉄砲から出た煙の向こうから、突然、槍が突き出る。
柵を越えようとする者は撃たれた。
隙間を探す者は刺された。
馬は暴れ、兵は倒れ、列は乱れた。
しかし、武田の猛将・山県昌景は退かなかった。
赤備えは何度も柵へ迫った。
そのたびに鉄砲が火を噴いた。
山県の軍勢は、まるで赤い布を少しずつ裂かれるようにバタバタと倒れていった。
昌景は、武田家中随一の猛将である。
決して、戦場で怯む男ではない。
しかし、今回の戦は違っていた。
騎馬隊でいたずらに突っ込んでも、ただ死体の山を築くだけだと、昌景は知っていた。
無駄死にすることがわかっていたのだ。
だが、自分の主人が命令したことには、死んでも任務を遂行するという強い決意を昌景は持っていた。
昌景は死を覚悟し、突撃した。
鬼神のごとく戦った昌景だったが、最後は、ついに無念の死を遂げた。
武田の赤備えは、設楽原で壊滅した。
内藤昌豊も奮戦した。
原昌胤も一歩も引かなかった。
土屋昌次もまた、死地へ向かった。
真田信綱、真田昌輝の兄弟も、武田の名に恥じぬ戦いを見せた。
しかし、織田・徳川の守りは崩れなかった。
武田の騎馬隊は、何回も突撃を繰り返した。
その度に、三千挺の鉄砲が火を噴き、兵が倒れた。
戦場は、やがて白煙と泥と血の匂いに包まれた。
勝頼のもとには、悪い報せが次々と届いた。
『山県殿、討死!』
『内藤殿、討死!』
『真田兄弟、討死!』
『原殿、討死!』
信玄以来の名将たちが、次々と討ち死にした。
勝頼は功を焦り過ぎたのだ。
とにかく早く武田家の当主として認められたいという思いだけで、
武田の柱である家臣たちを次々と失ってしまったのである。
信玄以来のこの討ち死にした名将たちは、当初からこの戦いはすべきではないと進言していた。
信玄以来の重臣たちは、信玄が亡くなると、勝頼に疎まれていた。
この織田軍からの撤退の進言を経験の乏しい勝頼と一部の側近たちが否定し、決戦を決めてしまったのである。
勝頼は言葉を失った。
武田の屋台骨を次々と失ってしまったことに、ようやく勝頼は気付いた。
それでも戦場では、まだ武田の兵が戦っていた。
彼らは強かった。
敗色が見えても、なお前へ出る者がいた。
主君を逃がすために踏みとどまる者がいた。
仲間の死体を越えて槍を構える者がいた。
長篠の敗北は、武田が弱かったから起きたのではない。
武田は確かに強かった。
強かったからこそ、織田と徳川は周到に備えたのである。
真正面から受ければ危ない相手だから、柵を築いた。
騎馬や槍の勢いを止めるため、地形を選んだ。
近づかれる前に、鉄砲で敵の戦力を削いだ。
武田の強さを知っていたからこそ、信長と家康は考え抜いて戦場を作ったのである。
正午を過ぎる頃、武田軍の敗色は明らかになった。
織田・徳川方は、柵の内にこもるだけではなく、機を見て押し出した。
さらに、徳川の家臣・酒井忠次隊が武田の背後に回り込み、挟み撃ちを受ける形になってしまった。
疲れきった武田勢は、じりじりと後退した。
退却は、戦の中で最も難しい。
勝っている時の前進より、敗れた時の後退の方が何倍も難しい。
背を向ければ敵に追われる。
取り乱せば、戦線は崩壊する。
主君が討たれれば、家は滅びる。
そのとき、最後までなんとか戦線を保っていた、馬場信春が動いた。
この老将は、すでに勝敗を悟っていた。
もはや、この戦は勝てぬ。
だが、当主の勝頼だけは逃がさねばならない。
武田の当主が討たれれば、すべてが終わる。
馬場信春は殿を引き受けた。
殿とは、逃げる味方の最後尾に立ち、追ってくる敵を食い止める役である。
それは名誉ではある。
しかし、ほとんど死を意味する役でもある。
馬場はそれを承知で買って出た。
勝頼様を無事に撤退させる!
武田を守る!
それが老将の最後の忠義であった。
馬場信春は、追いすがる敵を食い止めた。
槍を受け、矢を受け、鉄砲の音を聞きながら、それでも崩れなかった。
信春の奮戦の背後で、勝頼は退いた。
寒狭川を越え、武節城を経て、信州へ向かって落ち延びていった。
勝頼に従う者は、もはやわずかであった。
朝には山を埋めつくすほどの大軍であった武田軍は、夕刻には散り散りになり、泥にまみれになっていた。
勝頼は振り返った。
設楽原の方角には、まだ煙が残っていた。
それは鉄砲の煙であり、戦で焼けた武田軍の旗の煙でもあった。
勝頼の耳には、まだ銃声が響いていた。
後世の人々は、この戦を三段撃ちの勝利と呼ぶかもしれない。
三千挺の鉄砲が、武田騎馬軍団を一瞬で撃ち破ったと語るかもしれない。
だが、武田の騎馬隊、そして武田の名称たちはとてもよく戦った。
織田・徳川連合軍にも少なからずの死者や怪我人が出たことは想像に難くない。
ただ、勝利したのは織田信長と徳川家康。
武田勝頼は敗れた。
しかし、勝頼をただ愚かな若いリーダーとして片づけることはできない。
彼は父の死後、武田の威光を守ろうとした。
家臣の目、国衆の動揺、徳川の反撃、織田の圧力。
そのすべてを背負い、勝たねばならぬ立場に追い込まれていた。
長篠での決戦は、その焦りが生んだものである。
だが、それだけではない。
織田信長と徳川家康が、武田を倒すために最も有利な形を作ったのである。
勝頼の失敗だけでなく、信長と家康の用意周到な準備があった。
そこを見なければ、長篠の戦いの本当の恐ろしさは見えてこない。
甲斐へ戻る道は、長く重かった。
勝頼の周りには、かつてのような、助言や諫言をしてくれる重臣たちはいなかった。
山県昌景はいない。
内藤昌豊もいない。
馬場信春は戻らない。
真田信綱も真田昌輝もいない。
彼らは、設楽原でみんな散った。
武田の未来を支えるはずだった者たちが、そこで消えたのである。
勝頼は馬上で歯を食いしばった。
泣くことはできなかった。
泣けば、残った兵の心まで折れる。
敗れた主君にも、主君としての務めがある。
生き残った者を連れて帰らなければならない。
甲斐へ戻り、討死した者の名を告げ、遺族の前に立たなければならない。
勝頼にとって、今回の帰国は救いではなかった。
それは、敗北の重さを一つ一つ背負う試練であった。
やがて甲斐の山々が見えてきた。
そこは父・信玄が苦労してつくってきた国である。
勝頼が守らなければならない国である。
だが、その国へ持ち帰ったものは、勝利ではなかった。
負け戦という厳しい現実と織田・徳川の脅威を携えての帰国である。
そして、武田はもはや風前の灯火という事実だけが残されてしまった。
もちろん、長篠の敗北で、武田家はすぐに滅びたわけではない。
勝頼はこの後も戦い続ける。
城を築き、同盟を探り、失われた力を取り戻そうと必死でもがいた。
だが、設楽原で入った亀裂は予想以上に深かった。
信玄の時代から続いた武田の威光は、長篠の戦いで大きく揺らいでしまったのだ。
その後、『織田信長が来る!』と知らせが入ると、武田家の家臣は次々と裏切り始めた。
勝頼を当主とする武田家のために、最後まで忠誠を尽くしたのは、勝頼の弟の仁科盛信だけであった。
盛信は、5万の織田軍に囲まれ、信濃の高遠城で500の城兵と共に壮絶な討ち死にを遂げた。
まだ築城中だった新府城では、到底、織田の大軍を迎え撃つことはできないと考えた勝頼は、新府城に火を放ち、城を後にした。
家臣の小山田信茂を頼り、岩殿城を目指すが、小山田信茂まで裏切り、岩殿城に入ることができなかった。
そして、行き先を失った勝頼は天目山に向かい、織田の軍勢4000千に追いつかれた。
勝頼を守る兵は、わずかに40余り。
戦いにならなかった。
そして、家族と共に武田勝頼は自害して果てたのだ。
享年37。
武田勝頼。
彼は、父・信玄の偉大さ苦しみながらも、最後まで誇りを失わなかった。
彼は、決して愚かな武将ではなかった。
勇猛で知略にも優れていたが、孤独で不器用な武将であったのかもしれない。
織田信長や徳川家康などのあまりにも優秀過ぎる武将の存在が、彼の生涯を短くしてしまったのだ。
この物語は史実をもとにした歴史小説です。人物の心理描写や一部の会話・情景は、物語として再構成しています。
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