戦国時代の西国に、ひとつの巨大な勢力があった。
その名は、大内氏。
本拠は周防国、現在の山口県である。
大内氏は、山口を中心に栄え、博多を通じた海外交易でも大きな富を得ていた。
戦国大名でありながら、京の公家文化を取り入れ、山口の町は『西の京』とも呼ばれるほど華やかだった。
その大内氏の当主が、大内義隆である。
大内義隆は、西国随一ともいわれた大大名・大内氏の当主である。
武将であると同時に、和歌や学問、文化を愛した人物でもあった。
しかし、文化を重んじる姿勢は、戦を重んじる家臣たちとの間に深い溝を生んでいく。
そして、その武闘派たちの中心にいたのが、陶晴賢であった。
陶晴賢。
この人物こそ、のちに厳島の戦いで毛利元就と激突する男である。
陶晴賢は、もとは陶隆房と名乗っていた。
陶晴賢と名乗るのは、主人・大内義隆を滅ぼした後のことである。
陶氏は大内氏の有力な一族であり、代々、大内家の重臣として仕えていた。
隆房は勇猛な武将であり、軍事面で大内氏を支える中心人物だった。
だが、大内義隆が戦よりも文化を重んじるようになると、隆房をはじめとする武断派の家臣たちは不満を募らせていった。
その不満は、やがて爆発する。
天文20年、1551年。
陶隆房は主君・大内義隆に対して兵を挙げた。
世にいう大寧寺の変である。
大内義隆は山口を追われ、長門国の大寧寺へ逃れた。
しかし、もはや逃げ道はなかった。
西国に名を響かせた大内義隆は、そこで自ら命を絶つ。
華やかだった大内氏の時代は、この瞬間から大きく傾き始めた。
主人を滅ぼした陶隆房は陶晴賢と改名し、大内家の実権を握った。
ただし、彼は自分が大内家の当主になったわけではない。
大友氏から大内義隆の甥である大内義長を迎え、大内家の名を残しながら、その裏で実権を握ったのである。
大内義長は、大内義隆の姉の子であり、大内義隆が滅ぼされたあと、豊後の大友氏から大内家へ入った人物である。
陶晴賢は彼を大内氏の当主に据えることで、表向きは大内家を存続させた。
しかし、実際の政治と軍事の中心にいたのは、あくまで陶晴賢だった。
つまり大内義長は、陶晴賢の支配を正当化するための存在というだけであった。
だが、主君を倒した陶晴賢に対し、西国のすべての武将が従ったわけではなかった。
大内義隆の家臣たちの中には陶晴賢に反旗を翻す者も多数いた。
その一人が、安芸国の毛利元就である。
毛利元就は、安芸国、現在の広島県西部を拠点とした戦国大名である。
はじめから大大名だったわけではない。
むしろ毛利氏は、大内氏や尼子氏という巨大勢力の間で生き残りを図る、地方の国人領主のひとつにすぎなかった。
しかし元就は、戦の強さだけではなく、情報、調略、忍耐、外交を巧みに使い、少しずつ勢力を広げていった。
のちに「謀神」とも呼ばれるほど、知略に優れた武将である。
はじめは陶晴賢の謀叛に協力して、陶晴賢に敵対する安芸国の国人たちを攻撃し、自分の傘下に引き入れて勢力を伸ばしていたようである。
しかし、元就が手に入れたそれらの支配権を返上するように陶晴賢は要求してきたのである。
それから毛利元就と陶晴賢の対立は決定的なものとなった。
陶晴賢の動員できる兵の数は3万人をくだらない。
それに対して毛利軍は、せいぜい4000人から5000人である。
圧倒的に毛利軍が不利である。
正面からぶつかれば、毛利は押しつぶされる。
だから元就は待った。
そして、着々と味方を増やし、敵を減らし、戦う場所を選ぶことに知略を尽くした。
このころ、毛利家には元就を支える重要な息子たちがいた。
一人は、吉川元春である。
吉川元春は、毛利元就の次男である。
母の実家にあたる吉川氏へ入り、吉川家を継いだ。
勇猛果敢な武将であり、毛利軍の中では戦場での突破力を期待されている存在だった。
父・元就が知略の人であるなら、元春は力強く敵にぶつかる武の人であった。
もう一人は、小早川隆景である。
小早川隆景は、毛利元就の三男である。
小早川氏へ養子に入り、瀬戸内海方面の勢力と深く関わった。
冷静沈着で、父の知略をよく受け継いだ人物である。
海をめぐる戦いや水軍との連携において、毛利家にとって非常に重要な存在となった。
この「吉川」と「小早川」は「両川」と呼ばれ、元就が亡くなった後も、毛利家にとって必要不可欠な家柄となっていくのである。
元就、元春、隆景。
この三人を中心に、毛利家は動き出す。
だが、陶晴賢の軍勢と正面から戦ってはならない。
陶軍は強大である。
大内氏の旧領と軍事力を背景に、晴賢は大軍を動かすことができた。
兵の数だけで考えれば、毛利軍に勝ち目は薄かった。
そこで元就は、陶晴賢を謀略によっておびき出すことを考えた。
その場所が、厳島である。
厳島とは、現在の宮島のことである。
海に浮かぶ神の島として知られ、厳島神社が鎮座する島である。
平地は少なく、山が迫り、海に囲まれている。
大軍が自由に動き回るには、決して向いていない。
しかし少数の兵が地形を利用し、敵を混乱させるには、これほど都合のよい場所もなかった。
元就は考えた。
陶晴賢を、厳島に誘い込むことができれば、大軍の利点をかき消すことができる。
海を背にし、山に囲まれ、逃げ場を失わせることができる。
そのために元就は、厳島に宮尾城を築いた。
宮尾城は、厳島に築かれた毛利方の城である。
決して大きな城ではないが、城の北部の山麓まで海が迫っており、三方が海に面して水軍の運用も可能な城であった。
そのため海上から物資の搬入や援軍も容易に入城することができた。
そのため、陶晴賢から見れば、厳島に毛利方の城があることは見過ごせないことであった。
さらに、厳島は瀬戸内海の交通上も重要な場所であり、宗教的にも特別な島である。
そこに毛利の拠点を置くことは、陶晴賢に対する挑発そのものだった。
つまり宮尾城は、陶晴賢にとって見過ごすことのできない存在だったのだ
毛利元就にとっては、宮尾城は、敵を呼び込むための餌でもあった。
元就は、罠を仕掛けたのである。
だが、罠は仕掛けただけでは成功しない。
陶晴賢が本当に厳島へ大軍を送ってくるのか。
そして、送ってきたとしても、毛利軍が海を渡って奇襲できるのか。
つまり、この戦いには、陸を移動する武士だけではなく、海を移動する力が必要だった。
そこで重要になるのが、村上水軍である。
村上水軍とは、瀬戸内海で大きな力を持った海の武士団である。
能島村上、来島村上、因島村上などが知られ、瀬戸内の海上交通や合戦に大きな影響力を持っていた。
船を動かす力、海の天候を読む力、潮の流れを知る力。
それらは、陸の武士だけでは決して得られない力だった。
厳島の戦いにおいても、水軍の協力は勝敗を左右する重要な要素となった。
陶晴賢にとって、宮尾城は邪魔な存在だった。
厳島に宮尾城を築かれたことにより、陶晴賢は厳島から東の瀬戸内海には手が出せなくなってしまったのだ。
どうしても宮尾城を落としておきたいと陶晴賢は考えた。
そんなときに、毛利元就の重臣だった桂元澄が、元就を裏切って晴賢に味方したいと言ってきた。
さらに、その桂元澄から、「今、宮尾城を攻められたら、毛利方は非常に困る」という情報まで引き出した。
毛利は小勢である。
宮尾城を陶の大軍で攻め落とし、それを救援に来た毛利の本軍を一気に葬り去れば良いと陶晴賢は考えた。
しかし、それこそが元就の策謀だったのだ。
桂元澄も、元就の指示で裏切ったふりをしていたのだ。
そしてついに、陶軍は厳島へ向かった。
通説では、陶軍はおよそ二万。
それに対して毛利軍は、およそ三千五百ともいわれる。
数字には諸説があるが、陶軍が毛利軍を大きく上回っていたことは間違いない。
陶晴賢は大軍を率いて厳島へ上陸した。
狙いは宮尾城である。
宮尾城を落とせば、毛利の勢いを止めることができる。
厳島の浜辺に、陶軍の兵があふれた。
陣が築かれ、兵が集まり、宮尾城への圧力が高まっていく。
だが、この時点で陶晴賢は、すでに元就の術中に入りつつあった。
大軍が島に入った。
逃げ道は海である。
しかし海を自由に動くには船が必要であり、船を守るには水軍が必要である。
島の中は狭く、山が迫り、夜になれば視界も悪い。
もし背後から奇襲を受ければ、大軍は大軍であるがゆえに混乱する。
元就は、その時を待っていた。
弘治元年、1555年9月30日の夜。
厳島の海は荒れていた。
風が吹き、雨が降り、波が船腹を叩いた。
普通なら、出陣をためらう夜である。
しかし毛利元就は、「今日は吉日、この雨風こそ、天のご加護である」と言い、出陣した。
まさにこの暴風雨が、毛利軍の進軍の音をかき消したのである。
陶軍は、まさかこの悪天候の中で毛利軍が海を渡ってくるとは思わない。
毛利軍は、闇の中を進んだ。
船は波に揺れた。
兵たちは息をひそめた。
海の向こうには、陶晴賢の大軍がいる。
数では圧倒的に不利。
失敗すれば、毛利家そのものが滅びかねない。
だが、元就は動いた。
毛利軍は密かに厳島の東に回り込み、包ヶ浦へ上陸した。
そして山道を進み、博奕尾を越えた。
博奕尾は、厳島の山中にある尾根筋である。
毛利軍はこの尾根を越え、陶軍の本陣がある方面へ向かったと伝えられる。
海から正面にぶつかるのではなく、山を越えて敵の背後、あるいは予想外の方向から襲いかかる。
それが元就の狙いだった。
一方、宮尾城の兵たちも動く時を待っていた。
宮尾城の守備兵は、陶軍2万とも言われる大軍を前にして孤立していた。
しかし彼らの役目は、ただ城を守ることだけではない。
陶軍の注意を引きつけ、元就の奇襲まで持ちこたえることであった。
まさに、作戦を成功させるための非常に大切な役割を果たす兵たちだった。
さらに元就は、三男の小早川隆景の水軍に厳島の西から大きく迂回させ、陶の援軍かと思わせるような進路を取らせた。
隆景は、陶の水軍に「我が軍勢は、筑前から加勢に来た。陶殿にお目通りさせていただく」と言い、陶の援軍のふりをして、堂々と厳島に上陸した。
元就は、さらに味方についた村上水軍を沖合に待機させ、開戦を待たせた。
用意周到な準備である。
そして、夜明けが近づく。
雨と風の中、毛利軍は山を越えた。
ついに、陶軍の陣へ、総攻撃を仕掛けた。
もちろん、奇襲である。
眠りを破られた陶軍は、大混乱に陥った。
敵は海の向こうにいるはずだった。
正面の宮尾城を攻めているはずだった。
ところが、毛利軍は背後の山から現れたのだ。
陶軍の兵たちは何が起きたのか分からなかった。
狭い島に大軍がひしめき合っていたことが、ここで裏目に出る。
兵が多すぎて、すぐに隊列を整えられない。
逃げようとしても、道は狭く、身動きが取れない。
海へ向かっても、船がなければ渡れない。
押し合い、怒号の中で味方同士がぶつかり合う。
船を奪い合い、沈没して溺死するものが続出した。
大軍の強みは消えた。
むしろ大軍であることが、混乱を大きくした。
毛利元就の狙いは、まさにここにあった。
数で負けているなら、数を活かせない場所へ誘い込めばよい。
大軍を狭い島に閉じ込め、嵐と夜と地形を味方につけ、敵が最も油断する瞬間に襲う。
厳島の戦いは、力と力の正面衝突ではなかった。
知略が大軍を飲み込んだ戦いだった。
陶晴賢は、必死に態勢を立て直そうとしたはずである。
彼は決して無能な武将ではない。
大内家の軍事を支えてきた実力者であり、多くの戦を経験してきた男である。
だが、この日の厳島では、経験も武勇も、まったく役には立たなかった。
陣は乱れ、兵が次々と討たれていく。
毛利軍の攻撃は勢いを増した。
さらに、海上では毛利方についた水軍が陶軍の逃げ道をふさいだ。
島から出られない。
陸では毛利軍が攻める。
海では船を失う。
陶軍は、袋の中に閉じ込められたような状態になった。
陶晴賢は島外へ逃れようとした。
西に移動する中、武勇で知られる元就の次男である吉川元春の軍勢に追いつかれた。
しかし、陶軍の重臣である弘中隆兼が、陶晴賢を逃がすために必死に防戦した。
その後、弘中隆兼は少ない手勢で、最後まで戦い抜いて討ち死にした。
辛うじて逃れた陶晴賢は、厳島の海岸沿いを進み、島を脱出する船を求めた。
しかし、船は思うように得られなかった。
陶晴賢は追い詰められた。
大軍を率いて島へ渡った時、彼は毛利を討つつもりだった。
しかし今、その大軍は壊滅し、自分自身が逃げ場を失っている。
主君を倒してまで握った権力。
西国に号令するはずだった野望。
そのすべてが、厳島の浜辺で崩れ落ちていった。
やがて晴賢は、もはやこれまでと悟った。
陶晴賢は近習の者の介錯によって自刃して果てた。
享年は三十五とされる。
晴賢の首は、この近習の者が山中に隠し、その近習たちも全員自刃したとされている。
その最期に詠んだと伝わる歌がある。
「何を惜しみ 何を恨みん もとよりも この有様の 定まれる身に」
この歌は次のような意味である。
『このように命を落とすことは、生まれてきた時から決まっていたことだ。今さら何を惜しんだり、誰を恨んだりすることがあろうか』
悲しい歌である。
主君を討ち、権力を握り、そして自らも滅びる。
陶晴賢の人生は、戦国の激しい時代の象徴のようだった。
厳島の戦いは、毛利元就の大勝利に終わった。
陶軍は壊滅し、陶晴賢は自刃した。
毛利家は、圧倒的な兵力差を覆した。
この勝利によって、毛利元就の名は西国に大きく響き渡ることになる。
だが、元就にとってこれは終わりではなかった。
むしろ始まりだった。
陶晴賢を倒したことで、大内氏の力はさらに弱まった。
その後、毛利氏は大内氏の旧領へ進出し、中国地方の覇者へと昇りつめていく。
ここで改めて、厳島の戦いの意味を考えてみたい。
この戦いは、少数が大軍を破った奇襲戦として知られる。
桶狭間の戦いと並べて語られることもある。
しかし、厳島の戦いのすごさは、ただ少ない兵で多い兵を破ったことだけではない。
元就は、戦う前から勝つための条件を一つずつ作っていた。
敵の性格を読み、敵が動かざるを得ない状況を作り、島へ誘い込み、水軍を味方につけ、天候と地形を利用した。
つまり、勝負は戦が起こる前から始まっていたのだ。
陶晴賢は強かった。
兵も多かった。
だが、元就はその強さを発揮できない場所へ晴賢を引きずり込んだ。
厳島という島そのものを、巨大な罠に変えたのである。
毛利元就の戦い方は、派手な突撃ではない。
敵をよく見て、時を待ち、相手が最も苦しくなる一点を突く。
それは、弱小勢力として生き抜いてきた毛利元就だからこそできた戦い方だった。
大国に挟まれ、いつ滅ぼされてもおかしくなかった毛利氏。
その小さな家が、ついに西国の巨大勢力を飲み込んだ。
嵐の海。
夜、山を越える兵たち。
夜明け前の奇襲。
そして、逃げ場を失った大軍。
厳島の戦いは、戦国時代でも屈指の逆転劇である。
そこには、毛利元就の知略があった。
吉川元春の武勇があった。
小早川隆景の冷静な判断があった。
村上水軍の協力があった。
そして陶晴賢という、時代の波に飲み込まれた実力者がいた。
もし陶晴賢が厳島へ渡らなければ。
もし毛利軍の奇襲が失敗していれば。
もし村上水軍が毛利に味方しなければ。
歴史は大きく変わっていたかもしれない。
しかし現実の歴史では、毛利元就が勝った。
その勝利は、偶然だけではない。
周到な準備と、敵を読む力と、決断の速さが生んだ勝利だった。
厳島の戦い。
それは、海に囲まれた神の島で起きた、戦国最大級の知略戦である。
大軍を持つ者が勝つとは限らない。
強い者が、必ず生き残るとは限らない。
最後に勝つのは、時を読み、地を読み、人の心を読む者である。
毛利元就は、そのことを厳島の戦いで証明した。
そしてこの日から、安芸の一国人領主だった毛利氏は、中国地方の覇者へと歩み始めたのである。
下の動画でもお楽しみください♪
#毛利元就 #吉川元春 #小早川隆景 #厳島の戦い #陶晴賢 #戦国

コメント