google.com, pub-8728275454786337, DIRECT, f08c47fec0942fa0 第4回 2025年 慶應義塾大学法学部 その2 【大学入試で問われる日本史】 差がつく一問一答 - 長町ゼミナール

第4回 2025年 慶應義塾大学法学部 その2 【大学入試で問われる日本史】 差がつく一問一答

慶應義塾大学 大学入試日本史
大学入試で問われる日本史

2025年 慶應義塾大学 法学部
差がつく一問一答〈第4回・その2〉

入試本番で差がつく知識を、問題・正解・詳しい解説で確認。

【大学入試で問われる日本史】
差がつく一問一答の第4回です。
この動画は、大学入試の過去問で、実際に出題された問題を一問一答形式にして整理しています。
問題の都合上、一問一答形式に出来ない問題も含まれていますが、出題されたすべての問題を洗い出していますので、どのような知識が問われたのかがすぐにわかるようになっています。
今回の動画は、前回に引き続き2025年の慶應義塾大学法学部の問題を取り上げました。
この動画を見れば、慶應義塾大学法学部がどのレベルの用語を受験生に求めているのかがわかります。
答えられなかった用語に関してはしっかりと復習をしておきましょう。
解説が必要なところは、詳しい説明も載せていることがあります。
では、さっそく始めます。

Q39
自由民主党の前身の一つである自由党が、政権を担当していた期間中の出来事に関する説明として適切なものを以下の中から選びなさい。
  1. a第1回原水爆禁止世界大会が開催された。
  2. b日米地位協定が締結された。
  3. cアジア=アフリカ会議が開催された。
  4. d日華平和条約が締結された。
  5. eワルシャワ条約機構が成立した。
解答・解説を見る
正解d
解説

なかなか難しい問題ですね。自由党は、1950年3月に、民主自由党が民主党連立派の一部を吸収して党名を変更した政党です。総裁は吉田茂で、1955年11月まで存在しました。その後、保守合同により自由民主党になっています。自由党の総裁はほとんどが吉田茂でしたが、1954年12月8日から1955年11月15日までの最後の一年は、緒方竹虎が総裁となっています。しかし、緒方竹虎が総裁になったときからは、日本民主党の鳩山一郎の内閣となっていますので、1950年から1954年までの出来事を選べばよいという問題ですね。そうすると、dの1952年に結ばれた日華平和条約が正解となります。その他の年号を確認しましょう。第1回原水爆禁止世界大会は、1955年、日米地位協定は、1960年、アジア=アフリカ会議は、1955年、ワルシャワ条約機構が、1955年となります。この中で日米地位協定を確認しておきましょう。日米地位協定とは、1960年の日米安全保障条約に関連して結ばれ、日本にいるアメリカ軍の扱いを決めた協定です。わかりやすく言うと、日本に駐留する米軍が、どこを使い、どのようなルールで活動するかを決めたものとなります。ちなみに、、1952年の日米安全保障条約にもとづいて、在日米軍の基地使用や米軍人の地位を定めたものを日米行政協定といいますね。

Q40
終戦後の6回にわたる総選挙についての説明として適切なものを以下のなかより選びなさい。
  1. a1946年4月の総選挙の結果,女性が初めて帝国議会に議席を得た。
  2. b1947年4月の総選挙の結果,日本社会党が過半数の議席を獲得し,委員長の片山哲が日本社会党による単独内閣を組織した。
  3. c1949年1月の総選挙の結果,第1次吉田茂内閣が成立した。
  4. d1953年4月の総選挙の結果,鳩山一郎が吉田茂に代わって首相に就任した。
  5. e1955年2月の総選挙の結果,再統一を果たした日本社会党が第1党になった。
解答・解説を見る
正解a
解説

1946年4月の衆議院総選挙で、39名の女性議員が誕生しましたので、正しい内容となります。帝国議会で良いのかと思った受験生はいませんか?日本国憲法が施行されるまでは、帝国議会となりますので、戦後最初の衆議院総選挙のあとに開かれたのは、帝国議会ですね。この総選挙のあと、第一党になった日本自由党の総裁である鳩山一郎が総理就任をするはずでしたが、直前で公職追放になり、吉田茂が内閣総理大臣となりました。それが第1次吉田茂内閣です。では、誤りをすべて見ていきましょう。bについては、日本社会党が第一党になったことは正しいです。しかし、過半数は獲得していません。

そのため、そのあとに成立した片山哲内閣は日本社会党単独内閣ではなく、日本社会党・民主党・国民協同党による連立内閣でした。cについては、1949年1月の総選挙後に成立したのは、第3次吉田茂内閣です。第1次吉田茂内閣は、1946年の総選挙のあとになりますね。dに関して、1953年4月の総選挙後も、首相は吉田茂です。この総選挙のあと、第5次吉田茂内閣が誕生しました。しかし、造船疑獄事件により、この第5次吉田茂内閣が倒れ、1954年12月に鳩山一郎が首相になりました。eに関しては、1955年2月の総選挙の時点では、社会党はまだ右派社会党・左派社会党に分裂していました。

日本社会党が再統一するのは、1955年10月です。

その後、同年11月に自由党と日本民主党が合同して自由民主党が成立します。

また、1955年2月総選挙で第1党だったのは、吉田茂系の自由党です。

Q41
GHQによる占領政策を古い順に並べなさい。
警察予備隊令の公布神道指令の発令政令201号の公布二・一ゼネストの中止命令人権指令の発令
解答・解説を見る
正解人権指令の発令 → 神道指令の発令 → 二・一ゼネストの中止命令


政令201号の公布 → 警察予備隊令の公布
解説

それぞれの年号を確認しておきましょう。人権指令の発令は、1945年10月、神道指令の発令は、1945年12月、二・一ゼネストの中止命令は、1947年1月、政令201号の公布は、1948年7月、警察予備隊令の公布は、1950年8月となります。この中でいくつか用語を確認しておきましょう。人権指令とは、戦後すぐの1945年10月4日に、GHQが日本政府に出した命令です。人権指令をわかりやすく言うと、「国民の自由や人権を押さえつけてきた制度をやめなさい」という指令になります。戦前は、治安維持法などで、政府に反対する思想や政治活動を取り締まっていましたよね。そのような法律の廃止を指令したのです。さらに政治犯・思想犯の釈放、特高警察の解体と内務省幹部の罷免を指令したことも押さえておきましょう。神道指令とは、戦後すぐの1945年12月に、GHQが日本政府に出した命令で、簡単に言うと、「国家が神道を特別扱いして、国民に押しつけてはいけない」という指令です。これにより国家神道というものが消滅しました。二・一ゼネストは、1947年2月1日に予定されていた全国的なストライキです。戦後の物価高や生活苦を背景に、労働者たちが賃上げや待遇改善を求めて計画しました。しかし、実行直前にGHQのマッカーサーが中止命令を出したため、実際には行われませんでした。そのときラジオでストの中止を宣言した人物の名前を言えますか?そうですね。伊井弥四郎です。山川の用語集には一応載っていますよ。伊井弥四郎は、関西大学・中央・法政・明治・立教などで出題されていますので、日本史で高得点を狙う人は知っておいてください。井伊直弼の『井伊』と、伊井弥四郎の『伊井』は違いますので、気をつけましょう。政令201号は、1948年に出された、公務員の争議行為を禁止する政令です。簡単に言うと、公務員はストライキをしてはいけないよと定めたものですね。芦田均内閣のときに公布されました。

Q42
自由民主党に関する説明として適切なものを下から選びなさい。
  1. a結党時,衆議院における議席はその3分の2を超えた。
  2. b政権担当時,再軍備の一環として,陸・海・空の3隊からなる自衛隊を発足させた。
  3. c初めて政権を失うまでの間,一貫して両議院で過半数の議席を保持した。
  4. d1993年7月の総選挙の結果,過半数の議席を失うものの,その数は日本社会党を上回った。
  5. e1994年には村山富市内閣の与党として政権に復帰したが,それ以降は他党と連立政権を構成し,2000年代からは公明党も連立に加わった。
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正解d
解説

正解のdについてですが、1993年7月の総選挙で、自民党は過半数を失い、非自民連立の細川護熙内閣が成立しました。ただし、議席数そのものは日本社会党より多く、自民党は単独では依然として大きな政党でした。

では、誤っている選択肢をそれぞれしっかりと見ていきましょう。まずはaについてですが、自由民主党は1955年に結成されましたが、結党時の衆議院議席は3分の2を超えていません。大きな保守政党にはなりましたが、3分の2を超えてはいません。55年体制のときに、自民党が単独で3分の2を超える議席を獲得したことはありません。2026年2月の総選挙で、戦後初めて自民党が単独で3分の2以上の議席を獲得しましたね。

bについてですが、自衛隊が発足したのは1954年です。自由民主党の結成は1955年なので、自民党政権が自衛隊を発足させたわけではありません。

cについてですが、自由民主党は長く政権を担当しましたが、初めて政権を失う1993年まで、常に衆参両院で過半数を維持していたわけではありません。どちらの院でも、何回か過半数をとれなかった時期がありました。

eについてですが、非常に細かい知識となります。

1994年に自民党は村山富市内閣の与党として政権に復帰しました。この部分は正しいです。

しかし、「それ以降は他党と連立政権を構成し、2000年代からは公明党も連立に加わった」という部分が間違いです。1999年10月、小渕恵三第2次改造内閣の下で、自民党と公明党が初めて連立政権を組みましたので、『2000年代から』というのが誤りとなります。

Q43
1989年、昭和天皇が死去し、明仁親王が皇位を継ぎ、年号は平成となったが、4月に消費税を実施し、その反発とリクルート事件で退陣した内閣総理大臣は誰か。
解答・解説を見る
正解竹下登
解説

リクルート事件とは、1988年~1989年に発覚した、政界・官界・財界を巻き込んだ大型汚職事件です。リクルート社の関連会社が未公開株を持っていて、その株を政治家や官僚などに安く譲りました。未公開株は、上場すると値上がりして大きな利益が出る可能性があります。つまり、政治家や官僚に対して「もうかる株」を事前に渡して、見返りを期待していたということが問題になりました。この事件で、竹下登首相をはじめ、多くの有力政治家の名前が出ました。その結果、政治不信が一気に高まり、さらに1989年4月から開始した消費税への反発もあり、竹下登内閣は1989年6月に総辞職することになったのです。消費税の税率については、導入当初は3%、1997年に5%、2014年に8%、2019年に10%に引き上げられましたね。

Q44
リクルート問題発覚以降の以下の出来事を古い順に並べなさい。
  1. a湾岸戦争が勃発し,日本は多国籍軍に資金援助を行った。
  2. b政党助成制度が創設された。
  3. c宇野宗佑内閣のもとで実施された参議院議員選挙において自由民主党が大敗し,同内閣は総辞職した。
  4. d衆議院において宮沢喜一内閣に対する不信任決議案が可決された。
  5. e東京佐川急便から政治家への献金が明らかになり,金丸信が自由民主党副総裁の職を辞した。
解答・解説を見る
正解c → a → e → d → b
解説

先ほどの問題の解説でも取り扱ったように、リクルート事件は、1988年~1989年となります。

では、選択肢を古い順に並べたものを見ていきましょう。

一番古いのは、cの宇野宗佑内閣の参議院選挙での自民党大敗で、1989年です。

リクルート事件や消費税導入、宇野首相の女性問題などが影響し、自民党は参議院選挙で大敗しました。その結果、宇野内閣は総辞職しました。

次に、aの湾岸戦争とは、1990年にイラクがクウェートに侵攻したことをきっかけに起こった戦争です。

当時のイラクのフセイン政権は、「クウェートはもともとイラクの一部だった」とか、「クウェートが石油を多く売りすぎて、石油価格を下げている」と主張してクウェートへ侵攻しました。これに対して、アメリカを中心とする多国籍軍が結成され、1991年にイラク軍を攻撃してクウェートを解放しました。

日本は憲法上、自衛隊を多国籍軍に派遣できず、代わりに多額の資金援助を行いました。

その後、eの佐川急便事件が問題化したのが1992年です。

東京佐川急便の元社長らが、会社の資金を不正に使ったり、政治家に巨額の献金をしたりしていたことが明らかになりました。特に問題になったのが、自民党の有力政治家だった金丸信への5億円の闇献金です。これによって金丸信は自民党副総裁を辞任しました。

この佐川急便事件で政治不信が高まって、dの宮沢喜一内閣への不信任決議案可決につながることになります。これが1993年です。その後の総選挙で自民党は過半数を失い、55年体制が崩壊します。

最後に、bの政党助成制度の創設は、1994年です。政党助成制度が作られた背景には、リクルート事件や東京佐川急便事件などで、企業や団体からの献金に頼る政治が批判されたことがあります。

そこで、政党の活動費の一部を国が負担することで、政治と企業・団体との癒着を減らそうとしたんですね。

Q45
第二次世界大戦後の国会に関する説明として適切なものを以下より選びなさい。
  1. a国会議事堂は東京大空襲で全焼したため,戦後直後に再建された。
  2. b日本国憲法のもとでも二院制は維持されたが,マッカーサー草案(GHQ草案)では当初,一院制とされていた。
  3. c東久邇宮稔彦王は国会の指名に基づいて戦後初の首相に就任した。
  4. d鳩山一郎首相は憲法改正をめざして国会に憲法審査会を設置した。
  5. e岸信介首相は安保改定にあたり,参議院において条約締結の承認を求める採決を強行し,新安保条約を発効させた。
解答・解説を見る
正解bが正解
解説

戦後の国会制度では、明治憲法下の帝国議会から、日本国憲法下の国会へと変わりましたね。明治憲法下では、『衆議院と貴族院』という二院制でした。そして、日本国憲法下では、『衆議院と参議院』という二院制になりました。つまり、二院制そのものは維持されたのです。

ただし、GHQ草案、つまりマッカーサー草案の段階では、国会は一院制とされていました。衆議院資料にも、GHQ草案の国会について「貴族院は廃止し、一院制とする」と書かれています。 また参議院の資料でも、GHQ草案では国会は一院制だったと説明されています。しかし、日本政府の強い希望で、参議院を加えて二院制になりました。マッカーサー草案では、衆議院のみの一院制だったということは、山川の日本史探究の教科書P331の脚注にしっかりと書かれていますよ。

では、誤っている選択肢を丁寧に見ていきましょう。まずはaについてです。国会議事堂は東京大空襲で全焼してはいません。東京大空襲では被弾して少しは燃えたようですが、消化されているようです。ですから1936年に現在の国会議事堂が建設され、そのまま現在に至るということになりますね。実はその前に、突然の出火や火の不始末などから国会議事堂は2回ほど全焼していますよ。

次はcについて考えましょう。東久邇宮稔彦内閣が誕生したのは、1945年8月17日からです。それに対して、国会が作られたのは日本国憲法が施行されてからなので、1947年5月5日以降ということになりますよね。つまり、東久邇宮稔彦内閣が誕生したときには、現在の国会ではなく、帝国議会が存在していました。ただし、帝国議会の時代の内閣総理大臣というのは、帝国議会が指名するものではありません。元老と呼ばれる人たちが内閣総理大臣を推薦し、それに基づき天皇が任命することになります。最後の元老である西園寺公望が亡くなったあとは、重臣会議と呼ばれる会議で候補を決めて、天皇が任命することになりました。重臣とは、天皇の側近の人たちで、内大臣・首相を経験した人たちのことです。ただし、東久邇宮稔彦内閣のときだけは、重臣会議をせずに、直接天皇が任命したようです。したがって、国会が指名したというのは完全なる誤りですね。

次にdですが。これは少し難しかったかもしれません。鳩山一郎内閣の時代に関係するのは、憲法審査会ではなく、憲法調査会です。

1956年に憲法調査会法が成立し、内閣に憲法調査会が置かれました。これは、日本国憲法について調査するための機関です。山川の用語集には次の内容が載っていますので、引用しておきます。

“岸内閣時代から審議を開始。1964年報告書を池田内閣と国会に提出して解散した。2000年に衆参両院に再び設置されたが、2007年に憲法審査会の設置に伴い廃止。”となっています。

紛らわしい問題でしたね。

ついでにもう一つ確認しておきたい用語があります。

それは、『憲法問題調査委員会』という用語です。

この憲法問題調査委員会とは、第二次世界大戦後、日本政府が大日本帝国憲法をどう改正するかを調べるために設置した委員会です。1945年10月、GHQの指示により、幣原内閣の下に設置しました。松本烝治国務相が委員長となったため松本委員会などとも呼ばれましたよ。1946年2月、天皇主権のまま「憲法改正要綱(松本私案)」を提出しましたが、あまりにも保守的であるためにGHQにより拒否されましたね。そのため、GHQは日本政府案を待たずに、マッカーサー草案、つまりGHQ草案を作成しました。

最後にeですが、これは簡単ですね。強行採決されたのは参議院ではなく、衆議院です。

Q46
自衛隊がPKOで派遣された国・地域として適切でないものを以下のなかより選びなさい。
ゴラン高原モザンビークカンボジア東ティモールペルシア湾
解答・解説を見る
正解ペルシア湾
解説

ペルシア湾には自衛隊が派遣されていますが、これはPKOではありません。

湾岸戦争後の1991年、日本は海上自衛隊の掃海部隊をペルシア湾に派遣しました。目的は、機雷を除去して船舶の安全航行を確保することでした。防衛省関係資料でも、1991年に海上自衛隊の掃海部隊がペルシア湾に派遣されたと説明されています。

しかし、これは国連平和維持活動、つまりPKOとしての派遣ではありません。

それ以外の選択肢はすべてPKOで自衛隊が派遣されたところとなります。

Q47
55年体制崩壊後の政治改革に向けた動きに関する説明として適切なものを選びなさい。
  1. a自由民主党を離党した小沢一郎や細川護熙によって新生党が結党された。
  2. b国会で自由民主党を除く全ての会派が連立して細川護熙内閣を成立させた。
  3. c日本社会党は細川護熙内閣の与党であったが,その後を受けた羽田孜内閣では野党に転じた。
  4. d衆議院に小選挙区比例代表並立制が導入された当初,小選挙区から選出される議員と比例代表区から選出される議員はほぼ同数であった。
  5. e小選挙区比例代表並立制下での最初の総選挙の結果,民主党が新進党に代わって最大野党になった。
解答・解説を見る
正解cが正解
解説

cは正しい文章です。細川護熙が辞意を表明し、内閣総辞職したあと、羽田孜内閣が発足しましたが、日本社会党は羽田内閣から離脱し、羽田内閣は少数与党内閣になりました。

そのため、64日という短命内閣に終わりました。

では、誤っている選択肢を見ていきましょう。

まずaですが、新生党を結成したのは、小沢一郎と羽田孜ですので、細川護熙ではありません。

bについては、『自由民主党を除く全ての会派』というところが誤りです。共産党は細川護熙の連立内閣に参加していませんよ。

dについては、小選挙区比例代表並立制が導入された当初、衆議院の定数は

小選挙区:300人

比例代表:200人

でした。

つまり、同数ではなく、小選挙区の方が議席数が多い制度でした。

eについてですが、小選挙区比例代表並立制のもとで最初に行われた総選挙は、1996年の第41回衆議院議員総選挙です。

このとき最大野党になったのは、民主党ではなく新進党です。1996年総選挙では、自民党が第1党、新進党が第2党、民主党が第3党という形になります。

慶應義塾大学|平成史の出題傾向

最後に、慶應義塾大学では、平成時代の歴史がどのくらい出題されているのかを調べてみました。

慶應の平成史は、全学部で均等に出るというより、学部によって出題頻度に差が見られるといえます。

2010年以降の平成史関連をもとに、頻度も含めてまとめます。

法学部では、平成史の出題頻度はかなり高めです。特に、平成初期の政治改革・政界再編は、繰り返し出題されています。

目立つテーマは、リクルート事件、佐川急便事件、55年体制の崩壊、細川内閣、羽田内閣、村山内閣、新生党・日本新党・新党さきがけ・新進党、小選挙区比例代表並立制、政党助成制度などです。

法学部の場合、平成史は単なる時事的な知識ではなく、戦後政治史の到達点として出題される傾向があります。つまり、「昭和戦後の55年体制が、平成初期にどのように崩れていったのか」を理解しているかが問われます。

頻度としては、確認できる範囲で、2025年、2024年、2023年、2019年、2013年、2010年などに平成史関連の出題が見られます。したがって、法学部志望者にとって平成史は、かなり優先度の高い分野です。

次に経済学部ですが、経済学部でも、平成史の出題頻度は高めです。ただし、法学部のように政治改革だけに集中するのではなく、経済・金融・財政・安全保障が絡んで出題される傾向があります。

特に重要なのは、バブル崩壊、不良債権問題、金融監督庁、日本版金融ビッグバン、リーマン・ショック、消費税、橋本龍太郎内閣、小渕内閣などです。また、PKO協力法、日米安保共同宣言、周辺事態安全確保法、テロ対策特別措置法など、冷戦後の外交・安全保障も出ています。

頻度としては、確認できる範囲で、2023年、2022年、2019年、2018年、2013年、2012年、2010年などに平成史関連の出題が見られます。出題回数だけで見るとかなり多く、経済学部では平成史を経済政策・金融制度改革と結びつけて理解することが重要です。

続いて、商学部では、平成史は、法学部・経済学部ほど毎回の中心テーマになるわけではありません。出題頻度としては、中〜高程度と考えられます。

商学部では平成史が出ると、政治だけ・経済だけではなく、複数分野をつなげて問われることが多いです。55年体制の崩壊、細川内閣、羽田内閣、村山内閣、橋本龍太郎内閣、PKO協力法、冷戦終結後の日米関係、金融不安などが関連して出題されました。商学部では、平成史を「政界再編」「バブル崩壊後の経済」「冷戦後の国際貢献」という3本柱で整理すると効果的です。

確認できる範囲では、2023年、2021年、2015年、2013年などに平成史関連の出題が見られます。頻度としては法学部・経済学部より少し下がります。

最後に文学部ですが、平成史の出題頻度は中程度です。法学部や経済学部ほど制度・政策を細かく問うというより、昭和末期から平成初期にかけての時代の転換として出題される傾向があります。

出題されるテーマは、バブル景気、消費税、PKO協力法、細川内閣、村山内閣、橋本龍太郎内閣、金融不安などです。政治制度の細かい知識よりも、「戦後日本社会がどのように変わっていったか」を大きな流れで押さえているかが大切です。

確認できる範囲では、2023年、2010年などに平成史関連の出題が見られます。頻度は法学部・経済学部ほど高くありませんが、出る場合は、昭和戦後史とつながる形で出題されるため、冷戦終結・バブル崩壊・政権交代・国際貢献は押さえておくべきです。

今回の問題は、いかがでしたか?

これで2025年慶應義塾大学法学部の問題は終わりとなります。

ただ用語を知っているだけではなく、

「いつ起こったのか」

「何と何がつながっているのか」

「どこがひっかけなのか」

そこまで理解していないと正解できない問題が多かったと思います。

本番までにしっかりと自分の知識になるように復習を繰り返しましょう。

受験勉強で一番大切なのは、

間違えたことに落ち込むことではありません。

間違えた問題を、次に出たときに必ず取れる問題にしておくことです。

今日出てきた用語を一つずつ復習していけば、

その積み重ねが、入試本番で、周りの受験生たちと一点、二点の差を作ることになります。

慶應を目指す人も、難関大学を目指す人も、ここであきらめずに、もう一度確認しておきましょう。

知識は、裏切りません。

今日の復習が、未来の合格点につながります。

それでは、次回も一緒に、入試で本当に問われる日本史を確認していきましょう。

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