歴史新聞、本日3月21日は何が起こった日!?
今日は歴史上で何が起こった日なのかを新聞のように報道します。
トピック『伊達政宗、上洛!秀吉の前で見事な弁明――葛西・大崎一揆の黒幕か?「花押の秘密」で疑いを晴らす!』

天正十九年二月四日(1591年3月21日)
本日、奥州の若き虎・**伊達政宗が豊臣秀吉の命により上洛し、「葛西・大崎一揆を扇動した」**との嫌疑で喚問を受けた。
奥州仕置の後も混乱が続く東北の地。今回の一揆は、秀吉が直轄地とした葛西・大崎地方で発生した大規模な反乱であり、その背後には政宗の影があるのではないかと噂されていた。
さらに、政宗の家臣が裏切り、秀吉の家臣に密告するという衝撃的な展開が事態を悪化させたのである――。
[葛西・大崎一揆の発端]
葛西・大崎地方は、もともと葛西氏・大崎氏が支配していた土地であった。しかし、秀吉の奥州仕置により、両氏は改易され、代わりに**木村吉清**が領主として赴いた。
ところが、木村の統治は地元の武士や農民たちの反発を招き、一揆が勃発!
政宗は表向きこの一揆を鎮圧していたが、豊臣側の前線である**蒲生氏郷**は、政宗の動きに不審を抱いていた。
そんな中、決定的な証拠が氏郷の陣に持ち込まれることとなる――。
[政宗家臣の密告!「主君は裏で一揆を操っていた!」]
作戦開始前日の天正十八年十一月十五日、驚くべき事態が起こった。
伊達政宗の家臣・須田伯耆が突如、氏郷の陣に現れたのである!
そして、信じがたい言葉を口にした。
「今回の一揆は、政宗様が裏で扇動したものです!」
さらには、政宗の祐筆(書記官)である曾根四郎助も証拠となる密書を持参し、同様の訴えを行った。
彼らの証言によると、政宗軍の戦闘行動は空砲を使用した虚偽のものであり、一揆鎮圧を装いながら実際には一揆勢と通じていたという。
氏郷はこれを受けて、すぐさま秀吉に報告を行った。
こうして、政宗に対する疑惑は一気に深まり、秀吉はついに政宗を上洛させる決断を下したのである。
[伊達政宗、堂々の上洛]
政宗は、黒漆塗りの甲冑に身を包み、堂々たる姿で大坂城へと入城。
豊臣の大名たちが見守る中、秀吉との直接対面が始まった!
「貴様、葛西・大崎の一揆を扇動したのではないか?」
秀吉の厳しい言葉に、政宗は静かに答えた。
「私が一揆を起こしたという証拠がおありなのでしょうか?」
すると、秀吉は一通の書状を取り出し、政宗の目の前に突きつけた。
「これがお前の謀反の証拠だ!」
政宗は書状を手に取ると、鋭い目でそれを見つめた。
[「花押の秘密」で大逆転!]

政宗はゆっくりと口を開いた。
「私はいつも、書状が偽造されないように細工をしています。」
「花押の鶺鴒(セキレイ)の目に、針で穴を開けているのです。このことは私以外の誰も知りません。」
秀吉は怪訝な表情を浮かべながら、政宗の別の書状を取り寄せた。
そして、両者を見比べると――
「おお、本当じゃ! こちらの書状には確かにセキレイの目があるのに、謀反を企てているとされる書状にはそれがない!」
秀吉の顔が変わる。
こうして、政宗は見事に疑いを晴らしたのであった。
[政宗の処遇とその後]
弁明が受け入れられたとはいえ、政宗が葛西・大崎一揆の鎮圧に関与していたことは事実であった。
そこで秀吉は、政宗に旧葛西・大崎領を与える代わりに、伊達家の本領の一部を没収する処分を下した。
これにより、政宗は大規模な領土拡大の機会を失ったが、命を守り、伊達家の存続を勝ち取ったのである。
[戦国最後の梟雄、天下を狙う!]
今回の喚問を無事切り抜けた政宗。
しかし、この若き野心家がただ秀吉に従うだけの男でないことは、誰もが知っている。
「天下の形勢が変わる時、必ず伊達家は動く!」
そんな噂が、すでに江戸・大坂の町中に広まっている。
はたして、政宗はこのまま豊臣の臣下として生きるのか、それとも……?
戦国最後の大物、伊達政宗の動向から、目が離せない!
【注意】、あくまでも歴史新聞報道で、当時の状況を再現した報道であり、現代の報道ではありません。
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