歴史新聞、本日5月2日は何が起こった日!?
今日は歴史上で何が起こった日なのかを新聞のように報道します。
トピック 『筑波山に立つ! 若き志士たちの義挙――天狗党、尊皇攘夷の旗を掲げて蜂起!「天に義あり、我ら正しき道を行く」
元治元年三月二十七日(新暦:1864年5月2日)
本日、尊皇攘夷を掲げる藤田小四郎(22歳)率いる志士たちが筑波山にて挙兵。世に名高い「天狗党の乱」がここに始まった。
彼らは、開港によって外国勢力に屈した幕府への怒りと、民の声なき声を代弁するため、命を賭して立ち上がったのである。
[わずか62名の蜂起から始まった“義の軍” 民と国のため、若き志が燃え上がる!]
天狗党の志士たちは、多くが名もなき下級武士や郷士、農民であった。
だがその胸には、かつての水戸藩主・徳川斉昭や彼の右腕とされた学者・藤田東湖が説いた「尊皇攘夷」の精神が確かに生きていた。
中心人物の藤田小四郎は、藤田東湖の四男。年若くして学問と胆力を備えた俊英であり、渋沢栄一も「一を聞いて十を知る男」と称した才人だ。
彼らは叫ぶ――
「この国を売り渡すな!我らの天皇を戴き、誇りある国を守らん!」
[京へ届けよ、民の声を!「一橋慶喜公へ直訴を」――混乱の中でも貫かれた清き目的]
天狗党の目的はあくまで、尊皇の志を朝廷へ届けること。
そのために、京にいる一橋慶喜公を頼りに中山道を進軍する彼らに、幕府は反乱軍の汚名を着せ、討伐を命じた。
各地の藩兵との戦闘、飢え、寒さ、裏切り――
あらゆる苦難を乗り越え、天狗党は千四百名以上の軍勢にまで膨れ上がる。
そして越前国まで至ったとき、彼らが知ったのは――
討伐軍の総大将が、一橋慶喜その人であったというあまりに無情な真実であった。
[投降、そして非情の処断――だが志は死なず]
失望の末、天狗党は加賀藩に投降。だが、幕府の裁きは無慈悲だった。
藤田小四郎、武田耕雲斎をはじめとする多くの志士が斬首・島流しとなった。
その血は雪に染み、志は大地に刻まれた。
ある農民は涙ながらに語った。
「あの若者らは、自分らのために命を賭けてくれた。
年貢に苦しむ我らの代わりに、幕府に怒りをぶつけてくれた……」
[編集後記:「天狗の志、後の世に生きる」]
幕府は彼らを「反逆者」と呼んだ。だが、果たしてそうか?
この腐敗した世に怒り、名誉や報酬ではなく、ただ民と国のために立ち上がった若者たちが、果たして咎められるべき存在だろうか。
藤田小四郎、その名は消えたが、
彼の掲げた旗は、やがて幕末の動乱のなかで再び翻る。
その魂は、倒れても、焼かれても、
風となり、志士たちの背を押し続ける。
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