google.com, pub-8728275454786337, DIRECT, f08c47fec0942fa0 歴史新聞:4月17日は何が起こった日!? 『「光厳帝、即位の大礼」― 持明院統、幕府の後押しで玉座に ―後醍醐天皇配流の混乱の中、新たな帝の登場に朝廷騒然』 - 長町ゼミナール

歴史新聞:4月17日は何が起こった日!? 『「光厳帝、即位の大礼」― 持明院統、幕府の後押しで玉座に ―後醍醐天皇配流の混乱の中、新たな帝の登場に朝廷騒然』

歴史新聞、本日4月17日は何が起こった日!?

今日は歴史上で何が起こった日なのかを新聞のように報道します。

トピック 『「光厳帝、即位の大礼」― 持明院統、幕府の後押しで玉座に ―後醍醐天皇配流の混乱の中、新たな帝の登場に朝廷騒然』

元弘二年三月二十二日(新暦:1332年4月17日)

本日、持明院統の皇子・量仁親王が正式に即位され、**「光厳天皇」**として新たな御代が始まった。だが、その背景には平穏ならぬ政局の風が吹き荒れている。

[配流の帝、空位の玉座――「即位は幕府の意思か」]

今般の即位は、後醍醐天皇が幕府の怒りを買って隠岐に流されたという衝撃の事件を受けたものである。皇位継承の根幹たる「三種の神器」が今なお前帝の元にあるという異例の中、神器なき即位が強行された事実に、朝廷内では賛否が飛び交っている。

関係者の一人はこう語る。

「これは政(まつりごと)ではない。兵(つわもの)による玉座の簒奪に等しい。」

[南都北嶺も割れる見解――正統は誰の手に?]

伝統を重んずる延暦寺・興福寺などの諸寺も、今回の即位について意見が分かれている。持明院統の即位を正統と見る者もあれば、後醍醐帝こそ真の大権を持つという主張も強く、京の街には不穏な空気が流れている。

一方、幕府側は「天皇不在の国政は混乱を生む」として、持明院統の即位を迅速に推し進めた形だ。

[民の声:「どちらが真の帝か?」]

洛中の民の声を聞くと――

「帝が二人?わしらは、米の値が安くて平和であれば、どちらでもよいんだがなぁ……」
「剣璽もない即位など聞いたことがない。これはほんとうに『御代』と呼べるのか?」

庶民のあいだにも、光厳帝の即位を歓迎する空気は一様ではない。

[編集後記:「天が裂け、世が二つに割れぬことを祈る」]

この即位は、朝廷史上かつてない形で行われた。天皇とは天が選ぶ者か、幕府が選ぶ者か――その根源が問われる時代に、いま我々は立っている。

後醍醐帝が隠岐の島で何を思うか、そして光厳帝がいかなる治世を志すのか。
玉座を巡る政(まつりごと)は、未だ霧の中である。

【注意】、あくまでも歴史新聞報道で、当時の状況を再現した報道であり、現代の報道ではありません。

【今回の記事の解説】

元弘2年(1332年)に北朝の光厳天皇が即位するまでの過程は、鎌倉幕府と朝廷の複雑な関係と対立の中で生まれた政治的な混乱の象徴とも言える。この時代、皇統は「持明院統」と「大覚寺統」の二つに分かれ、両統が交互に天皇を出す「両統迭立」の制度が幕府の仲介で成立していた。しかしこの制度は、両統間の対立を根本的に解決するものではなく、むしろ幕府の統治権を朝廷に及ぼす手段の一つとして利用されていた。

後醍醐天皇(大覚寺統)は、即位直後からこの両統迭立に反発し、自らの皇統による単独継承を志向していた。さらに彼は親政を強く望み、幕府の支配構造からの脱却を目指して討幕運動を開始する。正中の変(1324年)や元弘の変(1331年)など、後醍醐天皇は再三にわたり討幕計画を試みたが、ことごとく幕府に察知され、元弘の変の失敗後にはついに隠岐へ流されることとなった。

この時、幕府は政権の安定を取り戻すべく、後醍醐天皇を退位させ、空位となった皇位に速やかに代わる人物を据える必要があった。後醍醐天皇としては、自分が退位したとは思っていなかったようであるが。こうして白羽の矢が立てられたのが持明院統の量仁親王である。彼は後伏見天皇の皇子で、血統的には正統な即位候補であったが、以前、幕府と朝廷の間で、後醍醐天皇の皇太子が大覚寺統の出身者であるというの異例の取り決めがあった。しかし、その皇太子が死去し、幕府の介入で、次の皇太子が量仁親王となっていた。このような中、量仁親王は幕府の判断で強引に即位させられることとなった。これが光厳天皇の即位である。

この即位は、本来の皇位継承の規範を大きく逸脱したものであった。三種の神器が後醍醐天皇とともに隠岐にある中で、神器を伴わない践祚が行われたのは、皇室の歴史上きわめて異例である。また、幕府が皇位継承に直接介入したことは、「朝廷の権威」と「幕府の軍事力」が真っ向から衝突しはじめたことを意味していた。

こうした強引な即位は、持明院統による「北朝」の正統性に早くから疑義を抱かせる要因となり、後に後醍醐天皇が隠岐を脱出して建武の新政を開始すると、二つの朝廷が併存する「南北朝時代」へと突入するきっかけとなったのである。

すなわち、光厳天皇の即位は、単なる皇位継承の一幕ではなく、幕府の支配体制が終焉へ向かう歴史の転換点であり、南北朝という未曽有の分裂と内乱の時代の幕開けでもあった。

#歴史新聞 #南北朝 #光厳天皇

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