歴史新聞、本日4月16日は何が起こった日!?
今日は歴史上で何が起こった日なのかを新聞のように報道します。
トピック 『立憲改進党、ついに旗揚げ!― 大隈重信ら、有志結集し国民の声を政に届けんとす ―』

明治十五年 四月十六日 1882年4月16日
本日、我が国近代政治の新たなる幕が上がった。東京にて、大隈重信を筆頭とする有志が「立憲改進党」の結成を高らかに宣言。民権と憲政を求める国民の声が、ついに政界において一つの形となった。
結党にあたって大隈氏は、以下のように力強く語った。
「今こそ我が国に議会政治の礎を築き、国民とともに進む政の時代を迎えるべし。政府のみによる専断は、文明国家のあるべき姿にあらず。我らは国民の代表となり、その声を政道に反映せん!」
この言葉に、会場に集まった市民・青年志士らは万雷の拍手をもって応えた。
[進歩と開化の旗印、いま掲げられる!]
立憲改進党は、憲法の早期制定と議会開設、言論・出版の自由、地方自治の確立、そして開明的な経済政策を掲げ、「国民の政治参加」を実現する近代国家の建設をその使命としている。
政府内の対立から一歩退いた大隈氏が、今度は外から民意とともに国家を動かそうとするこの展開は、まさに国民にとって希望の光である。
民の声:
「ついに我らの時代が来た!」
日本橋の書生:
「これまで政府の言いなりであったが、大隈先生が我ら庶民の声を政に届けてくれるなら、この国も変わる!」
農民の代表:
「税の重さに喘ぐ我らの暮らしが、ようやく聞き届けられるかもしれぬ。希望を託したい。」
[編集後記:「民意の力、いま政を動かす」]
大隈重信という人物は、単なる一政治家にとどまらず、この国の「新しき民意」の象徴である。薩長藩閥政治に風穴を開け、国民のための政治を本気で成し遂げようとする志こそが、明治という時代を真に開花させる原動力となろう。
立憲改進党の旗のもとに、今、民の目が輝き始めた。これは新しい政治の夜明けである。そして、この国の未来は、もはや政府だけのものではない。国民とともに創る国家のかたちが、ここに始まったのである。
【注意】、あくまでも歴史新聞報道で、当時の状況を再現した報道であり、現代の報道ではありません。
【歴史新聞の解説】

新聞報道では大隈重信を称えるような内容でしたが、本当にこの時期の大隈重信は大衆に人気があったのでしょうか?
実は、そこまで人気は無かったのです。当時の大隈重信の立憲改進党は、板垣退助の自由党よりも圧倒的に議席数が少なく人気も低かったのです。要因は、大隈自身の性格やイメージと深く関係しています。大隈重信は明治政府の高官として活躍し、非常に有能でしたが、しばしば独断的で強引な面がありました。そのため、政界の一部や民衆の間には「傲慢で権力志向の強い人物」というイメージが広まり、庶民の人気や支持を集めにくかったのです。
一方、板垣退助の自由党は、藩閥政府に抵抗し「自由民権」を強く訴える姿勢があり、板垣本人も大衆受けする演説スタイルや親しみやすい人柄から、農民や地方の庶民層に高い支持を得ていました。そのため、初期の自由党は立憲改進党よりはるかに多くの議席を獲得しました。
こうした状況に直面して、大隈重信も自らのイメージを改善する必要性を痛感し、それまでの強引でエリート的な態度を改め、大衆の声を意識した言動を心がけるようになりました。特に1898年の憲政党結成(自由党と進歩党の合同)以降、さらには早稲田大学の創設・運営などを通して教育や民衆へのアピールに力を入れ、徐々に一般民衆からも高い人気を得るようになりました。
つまり、大隈重信が立憲改進党を結党した当時に人気を得られなかった背景には、本人の「傲慢」と受け取られる性格が影響しており、それを改善して民衆に寄り添ったことで、後に「大隈人気」と呼ばれるような支持を集めたという流れが正しい歴史的評価といえます。
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