歴史新聞、本日4月14日は何が起こった日!?
今日は歴史上で何が起こった日なのかを新聞のように報道します。
トピック 『源高明公、政より去る――志半ば、宮廷を離れた“静かなる賢人” 安和の変勃発、雅と忠の才子はなぜ追われたのか』

安和二年 三月二十五日(新暦:969年4月14日)
本日、朝堂に激震が走った。
左大臣・源高明公が、突如として政界を去り、大宰権帥に左遷。
その背景には、今世を騒がす政変――**「安和の変」**があった。
それは、策謀か、誤解か、あるいは偶然か。
確かなのは、ひとりの名臣が静かに去ったという事実だけである。
[高明公とは何者だったのか]

源高明公は醍醐天皇の皇子にして、臣籍に降りた“賢人貴族”。
漢詩・礼楽に通じ、礼節と教養をもって知られた、まさに「学ぶ者の鑑」。
宇多・醍醐の治世を知る正統の系譜に連なり、
村上天皇の信任を得て、右大臣、さらには左大臣へと昇進。
その政務は冷静にして剛直、民に寄り添い、諸家の嫉妬を受けながらも、決して驕らず。
ある若僧の言葉にはこうある。
「高明公の姿は、まるで清流に影を映す月のごとし。
静かにして、心に残る。」
[しかし突如の変――藤原氏による陰謀か]

今回の政変の発端は、藤原氏筋の源満仲が密告したという噂の“謀反未遂”事件。
源高明らが為平親王を擁立して,皇太子守平親王 (のちの円融天皇) の廃立をたくらんでいると源満仲の密告があった。
しかし、それを裏付ける確証は未だ示されず。
高明公本人は「まったくの冤罪なり」と沈痛に語ったという。
「我は政に尽くしたのみ。いかなる野心も抱かず」
と記された上表文が、今朝未明に紫宸殿に届けられた。
[朝廷の内情――光るは藤原実頼の影]
政界では、藤原氏の一強体制を確立せんとする動きが強まっており、
特に関白・藤原実頼による政権の一本化が進行中である。
高明公の左遷により、事実上藤原北家以外の公卿勢力は一掃されたともいえる。
もはや、朝廷は「藤原の朝廷」と化しつつあるのか――。
[大宰府へ――高明公、静かなる旅立ち]

本日午後、源高明公は静かに邸を発ち、
京の南門にて振り返り、一礼されたという。
その眼差しには怒りなく、ただ深い憂いと諦念が宿っていたと、従者は語る。
花が舞う中、馬車を見送った老婢の涙は止まらなかった。
[失われた「もうひとつの道」]
源高明公という人物は、剛勇の将でも、権謀の徒でもなかった。
彼は、“言葉と節義”をもって政を為そうとした最後の人であったかもしれない。
藤原氏の時代は始まった。
だがその陰に、語られぬ歴史があることを、我々は忘れてはならない。
政とは、力にあらず。
真の政治は、静けさの中に宿る――
そう語りかけるような男であった。
今宵、ひとつの時代が終わる。
【注意】、あくまでも歴史新聞報道で、当時の状況を再現した報道であり、現代の報道ではありません。
[解説:安和の変]
969年(安和2年)3月に起きた「安和の変」とは、当時の有力貴族であった藤原氏が、政敵の左大臣・源高明を政治の場から追い落とすために仕組んだとされる政変です。源高明は醍醐天皇の皇子で、人格・教養ともに優れた名臣とされていました。彼の娘は、村上天皇の皇子・為平親王の妃であり、親王は天皇の後継者である「東宮」の有力候補と見なされていました。しかし、すでに藤原氏は、自らの血縁である守平親王(のちの円融天皇)を皇太子に立てることに成功しており、もし為平親王が即位すれば、藤原氏の権力基盤が揺らぐことを強く恐れていました。
そのような中、969年3月25日、源高明が為平親王を擁し,皇太子守平親王(円融天皇)の廃立を図っていると、源満仲が密告しました。翌日には臨時の人事異動(除目)が行われ、源高明は九州の大宰府へと左遷されることが決定されました。この左遷は、正式な罪状が明らかにされることもなく行われたもので、事実上の政治的追放でした。同時に、藤原師尹が左大臣に就任し、藤原氏の政権運営はさらに盤石となります。
安和の変は、実際の武力衝突などはなく、藤原氏が情報操作と朝廷内の政治手続きによって政敵を葬った、典型的な“政略事件”でした。この事件によって、藤原北家は朝廷における最大勢力としての地位を確立し、源氏や他の有力貴族たちは権力中枢から排除されていきます。結果として、以後の平安時代中期には、天皇の外戚となった藤原氏が政権を握る「摂関政治」がさらに強化されることとなりました。
安和の変は、戦ではなく言葉と官位によって行われた政争であり、静かでありながらも歴史の流れを大きく変える出来事だったのです。
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